主婦業を道元が割ったら
随所に主となれ
 曹洞宗の開祖・道元禅師は、「深山幽谷に住んで、仏祖の教えを守れ」という、師僧の如浄禅師の教えを守り抜いた孤高の人です。道元は時の将軍から土地の寄進や権利を受けてもこれを拒み、天皇から紫の衣(僧侶における位の高さの象徴)を送られても一生涯それを身につけることはありませんでした。

 
 1223年、24歳の青年道元は真の仏教を学ぶべく宋の国へやって参りました。明州の港、寧波(にんぽう)に停泊している道元の船に一人の老僧が訪れます。

「私は、典座(てんぞ:調理係の僧侶)をしているものです。この船には、日本産の良いシイタケがあると聞きました。譲っていただけませんか。」

 道元は中国に来て最初に出会ったこの老僧に、禅や修行について聞きたいことが山ほどあったので、たんに「買い物に来た」という言葉に愕然とします。

(バルーンおやじファンページより)
「あなたのような立派な僧侶が買い出しをなさるなんて。もっと坐禅に励み、古人の語録について学ぶべきではないのですか。」
「海をこえてこられた好青年よ。あなたはまだ、修行とは何かということがわかっていないようですな。」

老典座は道元を一笑し船を去って行きます。

その後、道元は禅宗の名門道場である天童山景徳寺にて修行することになります。
ある真夏の炎天下、道元は一人の腰の曲がった老僧が老骨に鞭うち、玉の汗を流しながら海草を干している所へ通りかかりました。

「あなたはお歳なのですから、誰かに手伝わせてはどうです。」
「他は是れ吾にあらず。他人にやらせたのでは自分の修行にならないじゃろう。」
「それならば、もっと楽な日におやりになってはいかがですか。」
「その楽な日とは、いったいいつかね?答えてごらん。今を除いてはあるまいに。」
 青年道元はこれらの老僧の言葉にノックアウトされます。修行とは座禅をしたり、経典を読むだけではないと気がつくのです。世の中に無駄な物など無い、全て必要なものなんだと。


 「随所に主となれ」という禅語があります。いつでも、いかなる状況下にいても、自分自身を信じて主人公になれ、そうすれば、自分が居るところは全て真実が伴う、ということです。収入のあるものを仕事と呼び、無いものを雑用と呼ぶ。たとえ仕事であっても「やる」のではなく「やらされている」と思ってしまう、、、それでは毎日がつらいだけで、悟りの大安楽は得られません。
 どんなときにも自分が主人公になって、しゃにむにがむしゃらに、行えばいいのです。するとやがて、その人がその場に無くてはならない存在になるのです。

よく「料理は私が作るからお皿はあなたが洗ってよ」なんていう方がいますが、そんなことをしないで逆に何から何までぜーんぶやってあげればいいのです。そうすると、やがてご主人は奥さんがいないと困るようになる。奥さんがその家の主人公になるのです。

 みんなから必要とされ、感謝され、そして、貴方自身もみんなに感謝できるようになったら、、、。全ての人が主人公として輝き、「主婦業は給料のもらえない仕事」なんていう考えは根底から無くなるのです。
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