教育を仏教で割ると、、、?
教育ママかくあるべし
 比叡山横川(よかわ)に住まわれた源信僧都は今から千年以上も昔、往生要集という浄土へ往生する為のいわゆる“マニュアル本”を書いた浄土信仰の祖というべき高僧です。浄土宗を開かれた法然上人、浄土真宗(一向宗)を開かれた親鸞上人はいずれも源信僧都の影響を色濃く受けております。

 
 源信は幼き時より神童の誉高く、十五才の時、早くもその英才が認められて、宮中主催の御八講という行事の講師に召されます。当時僧侶としての最高の栄誉です。左右両側には太政大臣、左大臣、右大臣等の高位顕官の殿上人や由々しき学匠達の居並ぶ中で、約四時間に亘り、少年源信はあらゆる教典をふまえて講義されたそうです。

 講義が終っても寂として声もなく、後ろで聞いておられた源信の師匠、良源上人もその見事さに思わずはらはらと落涙されたと伝えられています。天皇も御感のあまり、お誉めの言葉と褒美の品を賜りました。早速、源信はご下賜の品に手紙をそえて故郷の母に送りました。


 ほどなく母親から返事が届きます。

 「かくの如き立派な学僧になられたことを母は大変うれしく思います。」

と、ここまでは良かった。しかし、この後母親はこう続けます。

 「うちには女の子はたくさんおりますが、男の子はお前一人です。そのあなたを元服もさせず比叡山に登らせたのは、偉い坊さんともてはやされるためではありません。ひたすら真実の道を求めて、それを私に教えて欲しかったのに他ありません。華やかな場所に出入するような人になって欲しかったのでは決してないのです。もう私は老い先長くはありません。お前が本当の聖人になるまで私は死んでも死に切れません。

と、書いてあったのでした。

【紅葉の比叡山横川】

 “後の世を渡す橋とぞ思いしに、世渡る僧になるぞかなしき”という母の手紙はエスプリというにはあまりにも手厳しい内容でした。源信は両眼滝なす涙のうちに返事をしたためます。

「母上さま、源信は間違っておりました、、、」

源信は母の手紙によって、一時なりとも名利に心が動いたことを深く恥じられて、名利という字を部屋にはりつけてひたすら自己を戒めながら、その後なんと九年間、山に篭り修行に励みます。そうして母の死に際してはその枕元に跪き、見事な念仏大往生を遂げさせるのでした。          
 (今昔物語 巻十五) 

 勉強しなさい、偉くなりなさい、医者になりなさい、社長になりなさい、、、、という母親は今も昔も佃煮にするほどいるでしょう。しかし「尊い人になって欲しい」と願う親はどれだけいるでしょう。地位や名誉や富はあくまでも結果としてついてくるもので、目標ではありません。まして、勉強や教育そのものが目標になる人生など考えられるはずがないのです。

 いつの世も“〇〇に”ではなく“どういう〇〇に”が大事ではないでしょうか。

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