地獄極楽を白隠が割ると、、、
白隠禅師は、江戸時代の貞享二年(1685)に、東海道の原宿(現在の静岡県沼津市)で生まれました。没後に国師の諡号を賜った高僧で臨済宗中興の祖と称されております。もっとも生前の禅師は僧侶としての位には全く無頓着で、死ぬまで修行僧の着る墨染めの衣をまとい、田んぼのあぜ道に腰を下ろし大衆への教化に尽くされたそうです。
「駿河には、すぎたるものが二つあり 一に富士山、二に原の白隠」ということばが、昔から人々の間で歌われ庶民に慕われてきました。
〜禅師の住した松蔭寺〜
白隠禅師かくも人々に崇められ、名声高き白隠禅師のお寺に、ある日一人の武士がやってまいりました。禅師がそれほどの人物なのかを確かめてやろうというのです。
武士は
「禅師よ、地獄、極楽などというがそれは一体どこにあるのか」
と問いました。
すると禅師は武士の魂胆を見抜いてか
「お前は武士であろう。武士なら武士らしくすればよい。地獄だ、極楽だとそんなことに迷っているようでは本当の武士ではない、にせ者じゃ!」
と罵倒しました。それも、問われるたびに何度も武士を愚弄したのでついに堪忍袋の緒が切れた武士はカッとなって
「失礼でござろう。人が仏法を丁重に問うているのにそれに答えず、わめくという法があるか」
といって腰の刀を抜き放った。それを禅師はひらりとかわし、こういった
「それ、そこが地獄というものじゃ」。
ハッと気がついた武士はその場に手をつき
「お見それ致しました。ご無礼の段、平にお赦しを、、、」。
すると禅師は間髪を入れず
「それ、そこが極楽じゃ。」
と破顔大笑されたそうです。地獄も極楽も私たちの心の眼の向けようによるのだということを白隠禅師は教えたのです。
手を打てばはいと答える鳥逃げる鯉は集まる猿沢の池
これは奈良の猿沢池畔の宿で手をポンと叩くと、宿の女中さんは「は〜い」と返事をし、軒にとまっていた鳥は驚いて飛び立ち、池の鯉はエサをくれると思って寄ってくるという歌です。斯様に一つの事象でもそれぞれの立場でまたそれぞれ心の持ちようによって、こうも反応が違ってくるものです。ピアノの美しい音色を騒音と聞くか、仲睦まじいカップルを睨み付けるか、曲がったキュウリをいびつと見るか。十人十色で全てが正しい。しかし、それにより心に地獄をつくるような生き方では全くもってつまらない。
この世界を地獄と見るか極楽とするか。その鍵を握っているのは他の誰でもない私たち自身なのです。
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