富者を仏教で割ると、、、

真の豊かさとは

江戸時代に村の子供たちと毬つきやかくれんぼをして遊んだ清貧の禅僧・良寛さんという方がいらっしゃいました。良寛さんは竹の子が天井につかえないようにと穴を開けてしまったり泥棒のためにわざと寝返りをうって布団を盗らせたりなどといった逸話で知られますが、なかなかどうして、書道に漢詩その他、僧侶としての知識・才能に秀でた人でありました。

 文政2年(1819)7月のこと、長岡藩九代の藩主牧野忠精(まきの・ただきよ)公が僅かなお伴を従えて良寛さんの元に訪ねてきました。良寛さんの人柄を慕い、そのこころを藩政に生かしたいと、良寛さまのために城下に寺を建ててそこへ迎えたいと懇請されたのでした。その頃、良寛さんが暮らしていたのは五合庵という、まあ六畳一間程度のみるからに粗末な庵でした。当時の良寛さんの書を見ると穂先のちびった粗末な筆で書を書いていたのが容易に分ります。いわゆるジリ貧の生活でした。
     【復元された五合庵】
 無言のまますわっていた良寛さんは、おもむろに筆をとり、一句したため忠精公の前に差し出されました。その句が有名な、

「焚くほどは風がもてくる落葉かな」

でありました。当時は電気やガスはもちろん無く、物の煮炊きや暖房は薪や落ち葉で用を足していました。良寛さんは「煮炊きに必要な落ち葉は風が運んできてくれます。私は自然の恵みを沢山頂いてここで生活しております。自分はこれで充分満ち足りております。」とその時の気持を句に詠んだのでした。
早い話が「結構です」と断ったわけです。

世俗的な欲望に関心を持たなかった良寛さまには、領主の庇護をうけて一寺の住職になろうなど、毛頭考えられなかったことでしょう。忠精は、越後から老中になったはじめての人物で、学問だけでなく、和歌や墨絵にもすぐれた藩主だっただけに、良寛さまの気高い心境に敬服し、いたわりの言葉を残して山を下ったとのことです。
 良寛さんは足るを知る者を富者といい、足るを知らぬを貧者と呼ぶと仰っています。どんなに財産を持とうともそれに満足をしなければその人は富んでいるとはいえず、逆にたとえ僅かな持ち物でもそれに満足していれば、その人は豊かであるわけです。洋服を何着持とうとも、宝石をどれだけ身に着けようとも、お気に入りの一着や、大切な人からもらった思い出の指輪を持つ人には到底及ばないのです。

物で溢れかえりながらも心が満たされないと多くの人が嘆く現代をみたら、良寛さんは何を思うのでしょうか、、、。

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