現実には無い言葉なのに誤用されて挙げ句の果てに市民権を得つつある言葉、よくよく考えてみないと後で後悔するかも知れない行動をさす言葉を取り上げて簡単に説明させて頂きます。
御経料
密葬
生前戒名
散骨
御経料?
ごく稀に御経料と表書きされたお布施をお預かりすることがあります。まず結論からいいますと御経料や読経料云々という言葉は絶対にありません。もちろん戒名料という言葉も無いのです。特に戒名料にいたっては現在あまりにこの言葉が一般に誤用され続けた為に、お坊さんでもやむなく使われる場合がありますが、そんな言葉はもともと、いや金輪際無いのです。
代金や料金という物は商品やサービスに対して支払われる物で、「料」という言葉を使う人は恐らく、ご葬儀やご法事といったものをサービスとみて、それに対して代金を支払う、と考えているのでしょう。
全てはお布施
お坊さんが読経したり、加持祈祷をすることを法施(ほっせ・ほうせ)といいます。これもお布施の一つです。それに対して檀信徒の方がするお布施を財施(ざいせ)といい、昔はお米や品物を納めることも多かったようです。つまりお互いに施し合っているわけです。ですから決まった金額が存在しないわけです。
そしてこのとき自分が持っている物を見返りを求めずに喜んで相手の為に施しているわけで「喜捨(きしゃ)」といいます。「高すぎた損をした」とか「安く済んだ」では喜捨にならないのです。
電車で席を譲れば床座施(しょうざせ)を施したといい、ありがとうと微笑めば和顔施(わげんせ)を施したといいます。見返りを求めない施し合いです。席を譲ろうとしている人に金額を聞いたり、どれくらいにっこりすればいいですか?何ていう人はいないのです。お互い自分に出来る範囲で精一杯のことをすればいいのです。
つまり表書きには「お布施」と書くのが本当です。見栄を張らずに出来る限りのことを故人とそれを守るご本尊様に対して布施すればそれでよいのです。
とはいえども
とはいえ、この答えで納得して頂けない方も中にはいらっしゃいます。そのようなときは私は相手の経済状況が分かっていれば
「では仮に10万円は多いでしょうか、そして1万円だとしたら少ないでしょうか。ほとんどの方(千葉県流山市内)がこの間の金額をお布施していますので、この間でしたら全く気にすることはございませんよ。」
とお話しすることもあります。家族や親戚で相談して決めればよいと思うのですが、、、みんなで話して決めたお布施に対しとやかくいうようなお寺とは無理に付き合う必要は無いと思います。
坊主丸儲け?
ちなみにお布施がいくらだろうと、住職のふところにそのまま入ることは絶対にありません。お寺の会計に入るのです。“坊主丸儲け”という言葉から誤解されがちなのですがお坊さんは全て給料制です。ですからお坊さんも給与に対する税金を払っています。つまりお布施をたくさんいただいたので今月は給料が多い、なんていうことは決して無いのです。そんなコト勝手にしたらいつでも住職罷免(つまりクビ)になります。
もちろんお寺により布施やその他の収入には格差があるので、その代表役員である住職や職員の給与もそれなりに違います。
私?私の着てる服や乗ってる車を見て下さいよ、、、(T_T)
決まっているものも
なお、お寺に納めるもので金額が決まっているものもあります。墓地の管理料や、護持会費といった名前が付いたりしているものがそうです。これは純然たる維持管理費だとご理解下さい。お札等も金額が明示されていることがほとんどですが、これは皆さんが納めた奉賛金に対し祈祷を行い、その印としてお札を授けていただくのです。ですのでお札等は税務処理上は寄附金や諸経費として扱われます。
密葬?
本葬あっての密葬
「密葬」は「本葬」に対して使う言葉で、ふつう密葬と本葬は二つで一セットになります。社会的に知名度や影響力の大きい人(大会社の社長や重役、芸能人など)はこういった葬儀形態を取ることが多いです。そういった方々が亡くなった際、それを広く告知する必要が生じますし、大勢の人を呼ぶ為には空間的にも広い場所が必要となります。そのためにはある程度の準備期間を必要とします。ですから、事前に家族や親戚で「密葬」と呼ばれるうちうちの葬儀を行って荼毘に付し、その後、準備が整ってから、大々的に「本葬」という葬儀をおこなう訳です。
専門用語は専門家が使うもの
しかしテレビなどの影響でしょうか、最近、少人数で行う葬儀などをさして「うちは密葬でやりますから」などと誤用する一般の方がいらっしゃるそうです。密葬と本葬は本来二つで一つなので、「密葬、、、」なんていうと「じゃあ本葬はいつですか?」と聞かれるかもしれません。よく分からない専門用語を無理に使わず素直に「簡素な形式で」とか「案内をせずに家族のみで」などといえばよいと思います。
地域によっては、、、
なお、全国には骨葬(火葬後に遺骨で行う葬儀)が通常である地域もあります(千葉県流山もそうです)。それらの地域では出棺前の読経や火葬そのもののことを密葬と呼び、当日(火葬後)又は翌日に行う葬儀・告別式を本葬と呼ぶこともあるようです。
生前戒名?
ハイ、仏教テレホン相談です
以前、仏教テレホン相談にこんな電話がかかってきました、、、
「生前戒名をもらいたいのですが、値段はおいくらほどでしょうか」
逆修戒名
まず、始めに断っておきますが【生前戒名】という言葉はありません。また戒名はお金で売り買いするものではありません。一部のマスコミが作った【戒名料】という言葉が蔓延しているため誤解されている方も多いのですが、そもそも戒名とは仏弟子として種々の戒律を守っていきますと誓った証に、師から与えられるものです。受戒の作法の無い戒名などありえないのです。
つまり裏を返せば生前に戒を授かれば、当然生きているうちに戒名が与えられるのです。これを逆修(ぎゃくしゅう、げきしゅう)と呼びます。「逆」とはあらかじめという意味です。常に死と背中あわせであったろう戦国武将などはむしろこちらの方が多く、例えば上杉輝虎の逆修は謙信、武田晴信の逆修は信玄です。
仏弟子としての生活
仏教は生きている人が積極的に明るい日々を過ごすためのものでありますから、生きている間に戒を授かる方が本義かも知れません。しかし想像通り戒律は大変厳しいもので、日々の生活の中でこれら全てを実践するのは非常に困難です。ですからやがてほとんどの場合死後に戒を授かるようになったのでしょう(これが葬式仏教と揶揄される大きな原因の一つであり、我ら僧侶が猛省熟考すべき問題です)。
もっとも、戒律を守って暮らすことは本人にとって計り知れない心の安らぎと、周囲への幸せをもたらすのですから、「御仏の教えを守る」という決意をされた方が逆修を受ける事に私はやぶさかではありません。まずは和顔愛語(わげんあいご:笑顔と優しい言葉で人と接する)から実践していきましょう!
戒律のない宗派も
なお、真言宗・天台宗・浄土宗・禅宗では「戒名」、浄土真宗では無戒をモットーとするために受戒作法はなく「法名」、日蓮宗では法華経の信者は霊山浄土に生まれることが前提になっておりここで改めて受戒作法は行わないため「法号」といいます。
散骨?
前衛的?回帰的?
散骨とは火葬後の遺骨を墓地等に埋葬せずに海や山、中にはロケットで宇宙に撒くことを総じていいます。
「散骨」でとても残念なのは、散骨をする人は文化人で、墓地に埋葬をする人は何も考えていない愚かなものであるという主張をする人がいることです。人間は死ねば生ゴミと一緒であるとか、散骨こそが自然であるとか。理屈だけ聞けばつじつまは合っているようにも聞こえますが、とても賛同はできません。散骨をする人達の行為は同じでもその人たちの考えは実にまちまちだからです。アンケートによると結局、本当に納得して後悔をしなかった人はごく稀だそうです。
拝めない!
供養する対象がないことは、心の支えを失なうことにもなります。もし費用がかかることが問題なのなら、墓石を建てずに納骨堂などにお骨をお祀りすれば良いのです。もちろんこれにもお金はかかりますが散骨作業の手数料よりお金がかからないところもたくさんあります。
自分がここにいる訳
子供はいつか親を越えてゆきます。早い子は精神的には小学校高学年で、体力的には中学生で親を越えるでしょう。そのときに子供に躾ができるのは一体誰でしょう。人間の英知を越える何かが必要になったときにどうするのでしょうか。海に骨を撒くのなら、嗣子累代に亘って海を見て自分の生命のルーツを感じることができるような教育が必要です。
法律の抜け穴
また「墓埋法」と言われる「墓地、埋葬等に関する法律」に定められる「埋葬又は焼骨の埋蔵は、墓地以外の区域に、これを行ってはならない。」という部分を逆手にとり、埋めるのではなく撒くのだからいいだろう、という屁理屈とも言われかねない言い訳で始まったことも知っておく必要があります。
理屈じゃない
恋愛のときのドキドキする気持ちは吊り橋の上でのドキドキ感と一緒であることはよく言われますが、物事はそんなに単純なのでしょうか?人間の精神とは宇宙よりも広く、生命の始まりや終わりに至っては、私たち凡人がとやかく言えるようなもののはずが無いのです。
個人主義の蔓延
自分の前に人がいて、自分の後に人がいる。その気持ちを忘れたら「人間」が「人」という単なる生き物になってしまうような気がしてなりません。散骨という行為より、散骨をよしとするその考えに私は不安を感じるのです。
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